東日本大震災の報道のため、休刊していたグラフ雑誌が緊急復刊しました。インターネットや映像など様々なメディアで情報が飛び交うなかで、写真が果たした役割とは。フリーライターのタカザワケンジさんの記事です。
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グラフ雑誌が伝えた大震災
「緊急復刊アサヒグラフ 東北関東大震災」
タカザワケンジ
3月11日に起きた東日本大震災を受けて、さっそくその翌週に写真を中心とした大判の雑誌が二冊発行された。「緊急復刊アサヒグラフ 東北関東大震災」と「サンデー毎日緊急増刊 東日本大震災」だ。いずれもかつて存在した「グラフ雑誌」のフォーマットを踏襲している。
「グラフ雑誌」とは、アメリカの「LIFE」誌に代表される写真を大きく扱う雑誌で、日本では新聞社が「アサヒグラフ」「毎日グラフ」などを発行していた。戦後から高度経済成長期に隆盛を誇ったが、のちに部数を減らしていく。「LIFE」が1972年に最初の休刊をしたときには、報道の第一線が写真(雑誌)動画(テレビ)へと移行したことの象徴だとされた。それほど、グラフ雑誌は写真をあつかうメディアの中心にあった。
「アサヒグラフ」は1923年創刊の老舗雑誌で、2000年に休刊している。80年代以降は報道よりもカルチャーや人物紹介などに重点を置き、写真家の作品発表の場という一面も持っていた。
今回の「アサヒグラフ」は「緊急復刊」と銘打たれている。出版流通的には「週刊朝日」の臨時増刊という位置づけで、同誌編集長の山口一臣が編集・発行人を兼ね、編集後記で「(大震災の惨状を)写真を大きくして、お伝えしたかったからです」とその復刊の理由を書いている。
女性の生足が痛々しく、被写体に無断で撮ったのだろうか? と気になってしまう。キャプションでは、話しかけたことが明記されているから許可を得ているのだろう。近年、被写体への配慮は、被写体だけでなく、見る側からも求められている。「こんな姿は撮られたくなかったのではないか」と思う読者は写真の撮影者のエゴを感じ取って、写真を見ることに心理的な拒否感を持つ人は多いはずだ。この写真に対しても賛否あるだろう。しかし、この大震災のすさまじさ、無情さを伝える一枚として心に残る。
山田太一脚本のテレビドラマ『岸辺のアルバム』(1977)は、ごく平凡な家庭がそれぞれに秘密を抱えていたことが明らかになるにつれ、崩壊していくテレビドラマの名作だ。クライマックスは1974年に実際にあった多摩川の氾濫。家が押し流されようとしているそのときに、家族がアルバムを取りに戻る。ドラマでは、アルバムは家族の絆の象徴であり、再生へのきっかけになりえるモノとして扱われていた。
写真は記憶の糧であり、家族の記録である。被災地でも家族写真を探す人は多いという。「アサヒグラフ」は写真を中心にしたグラフ雑誌だけに、写真がどのような社会的役割を果たしているかを取り上げたのだろう。
今回、東京にいて実感したのは、今回の地震は、テレビ、新聞、雑誌といった旧来メディアとインターネットと情報の流通回路が一斉に開いたという感覚だった。動画、静止画、テキストでそれぞれ情報が噴き出し、その凄まじい勢いに受け手が翻弄されるという現実だった。そのなかで、写真はどのような役割を果たしていたのか。
ツイッターを中心としたインターネットメディアの貢献はとくに注目された。ケータイ、家電ともにつながりづらくなった震災当日も、インターネット経由の情報は滞りなく流れ、しばしばテレビよりも先んじた。テレビではかいつまんで放送される記者会見を全編ノーカットで放送するというネットならではの強みも発揮した。
しかし、ネットでもテレビでも動画がバンバン流れていたにもかかわらず、ツイッター上でしばしば話題にのぼったのは、「ニューヨークタイムス」や「デイリー・メール」、「アトランティック・マンスリー」などの海外メディアのオンライン版に掲載された「写真」だった。なぜ、僕らは「写真」を見ようとしたのか。
今回、インターネット、テレビ、雑誌、と多メディアでの報道を見て感じたのは、写真が冷静なメディアだということだ。
動画、テレビは映像に巻き込まれ、そのペースでものを考えざるをえないが、写真は一度そのペースから外れて、画面を観察するという立場になる。そして、画面の細部まで検討することができる。
大震災という予断を許さない事態が進行する渦中にあっても、写真はその現実を客観視させる。写真は見る者の感情をクールダウンさせる働きがあると感じた。(これは東日本大震災のもっとも端、東京からの視点であることを断っておくべきではあるが)
「アサヒグラフ」にも同様の働きがあったと思う。書店では雑誌の特集号を買い求める人が多かったが、それは、こうして印刷された写真とテキストを読むことで、自分がいま巻き込まれている状況を客観的に把握したい、冷静な目で見たいという欲求の表れではないだろうか。
また、「アサヒグラフ」を手にして感じたのは、写真が紙に印刷されるというかたちでモノになることで記録性を増すという実感だった。
インターネットにも大震災の写真は大量にアップロードされているが、それはいつ削除されるかわからない。また、改変されて再流通することも十分にありえる。
しかし、報道機関が掲載された写真の事実性、記録性を保証したうえで発行したグラフ雑誌の場合、改変の可能性は低く、また、モノとして将来にわたって残っていく可能性が高い。
いまだ被災地には余震が続き、福島第一原子力発電所の放射性物質漏れは解決していない。大震災は「いま」進行中の話題だ。写真が大震災を伝えるうえで、どういった役割を果たしたのかを検証するにはまだ時期尚早だが、大震災直後にグラフ雑誌が刊行され、写真によって大震災を「見る」ことを読者が求めたという事実は重要だと思う。
■緊急復刊アサヒグラフ 東北関東大震災 2011年 3/30号 (Amazon)
http://www.amazon.co.jp/%E5%BE%A9%E5%88%8A%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%92%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95-%E6%9D%B1%E5%8C%97%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD-2011%E5%B9%B4-30%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B004SH52CC/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1301770500&sr=1-1
■The New York Times
http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/20110312_japan.html#1
■The Atlantic
http://www.theatlantic.com/infocus/2011/03/japan-earthquake-two-weeks-later/100034/
海外のニュースサイトの写真と、日本で報道される写真の質の違いも興味深い。海外の報道写真はいずれも美学に重きが置かれている。不謹慎を承知で言えばかっこいい。一方、日本の報道写真は事実性を重んじ、対象に肉薄する生々しさに重きを置いている。
両者の違いは、前者は望遠レンズを多用し背景をぼかし、後者は広角レンズを基本として対象に近づくという撮影スタイルの違いにも現れている。ただ、「アサヒグラフ」を見ると、日本の報道写真も欧米化しつつあるのかとも感じるが。
僕自身は、欧米の報道写真の「かっこよさ」に抵抗を感じる。スペクタクルな迫力の強調はハリウッド映画のCGを連想してしまう。しかし、写真としての「強さ」があると感じるのも、正直な感想だ。
報道写真を見たときに、どう感じるか。そこには、その人が置かれた立場、思想信条、生き方、写っているものとの距離感など、さまざまな要素によってかなり大きく違う、ということをいまさらながら実感させられた。
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■追記 2011/04/19
ここで取り上げた、がれきを背景にしてしゃがみこんでいる女性の写真の背景がのちに明らかになった。
「『世界を泣かせた写真の中の彼女』」の詳細が判明」
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52450806.html
彼女の涙の理由と、見ている僕らが想像していたことのズレがとても写真的だと思う。そして写真の背後にあった物語にもう一度驚かされた。
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